自由の森学園に行って来ました。今回の行事は公開研究会。簡単に言ってしまえば授業参観のようなものなのですが、普通の授業参観と違うのは、「参観者」いや「参加者」が生徒保護者だけではなく、他校の教員やジモリの教育に関心を持つ人などなどに広く公開させているということでしょうか。それともうひとつ、研究会という名前の通り、いま行なわれている授業をよりよい方向にできないかという検討を参加した全員で行なう検討の時間がもうけられていたりします。
娘のクラス(高校三年)の授業は、理科の「自然」という科目でした。自由の森には「人間生活」だとか、「循環型社会」の選択講座だとか、面白そうな科目がたくさんあります。「自然」(高3理科必修)では、前期は教員が主体となって授業を進め、後期は生徒がテーマを決めてクラスの(仲間の)前で授業を行なうというスタイルでした。
ところで、自由の森では生徒に「授業に出てください!」と言った直接的な表現での強制は少ないようです。授業に出るかでないかは「自由」。自分の意思による選択にかかっています。これはある意味、本人にとってはとても厳しいこと。授業をサボっている子を見つけても、教員は強くはとがめません。グッと我慢してくれています。ただ今回ひとつ感じたのは、生徒が授業を行なう側の立場に立ってみるということは、生徒たちにとって授業の見方が大きく違ってくることでもある、と思いました。
今回、授業を行なったのは、高3の女の子でした。授業のテーマは「人類はどう生きてゆくのか?」。なんとも面白そうでしょ! 最初に、クラスのみんなが行なっている「地球に優しいこと」を挙げてもらいました。そこにはその場にいるみんなに積極的に授業に参加してもらうという工夫があったように思います。
そしてその中のひとつ、「エコバックを使う」という行為についての検証がはじまります。彼女が調べてきたところでは、「政府や関係官庁は、レジ袋をなくすと年間25万トンの石油が節約できる」と宣伝しているそうです。しかしこれはレジ袋の生産量そのものの数字で、つまり25万トンという数字はレジ袋をまったく製造しなかった場合の数字とのこと。レジ袋に代るエコバックを作るのに必要な石油の消費量、あるいは、仮にエコバックがポリエステル繊維を使って作られているとしたら、レジ袋の原料であるポリエチレンとは材料の違いによる環境への負担の大きさの違うと言った視点が抜けていると指摘しています。
もう少し詳しく書くと、同じ石油製品であっても企業のノベルティとして使われることの多いエコバックはポリエステルで出来ていて、それは石油原料の内のBTX成分(ベンゼン、トルエン、キシレン)系の成分で出来ているのに対して、レジ袋の原料であるポリエチレンはナフサ系成分、つまり従来は燃やして捨てていたような成分から作られているといいます。
しかしここでミゾリン(=理科の教員のあだ名。ジモリでは校長を始めほとんどの教員がなぜかニックネームで呼ばれています)から、助言があり、これとはまた別の考え方が紹介されました。現代ではナフサをBTXに改質する技術が確立されていること、そしてナフサ自身が足りなくなって輸入していたりする場合もある、という反論もある、と言った助言でした。でもナフサをBTXに改質するに当たって、どのくらいのエネルギーが必要なのか? あるいは、石油は元々外国から輸入しいてるわけで外国ではナフサが余ってしまっている可能性もあるわけだから、ナフサを輸入することやレジ袋自体を輸入することが環境に優しくないかどうかを判断することは難しいという見方も出来ます。
でも、彼女が一番伝えたかったのは「レジ袋とエコバックのどちらが地球に優しいか?」という次元のことではなかったのです。
地球には生態系のバランスという平衡感覚があります。温暖化やゲリラ豪雨、それに今年のような猛暑などなど、ヒトにとって「危険な現象」は地球による調整機能のひとつとも考えられるのではないか?という考え方もできます。ヒトという生きものが増え、それによるダメージが大きいのでいま地球はバランスを戻すために動いているのではないかと、彼女は考えたのです。
食物連鎖の上位にいる肉食獣が増えすぎてしまうと、エサとなる草食獣が減るのでそれによって淘汰され自然はバランスを取り戻します。それと同様、ヒトも地球上に生きる生物の一種である以上、地球の生態系のバランス感覚にコントロールされているという考え方です。
そしてその先が私にとっては興味深く、とても面白く感じられたのですが、地球の生態系にコントロールされるケモノたちは「ただ生きている」、言い方を変えると自分が生きることだけを考えて「(エコではなく)エゴを優先して生きている」ように見える。そしてそうした姿勢が地球の生態系によってコントロールされるために必要なことなのではないか?という視点でした。
つまりいま、企業が経営者や資本家の利益を最優先して行なっている(地球や自然の大きな負担となる)行為は、ヒトがケモノとしての本能に根ざした行為で、それを持続することの方が、地球のダメージという観点でみると結果としては小さいのではないか、とも考えられるという見方です。
しかしその一方で、いま人類は「自分たちが生き延びるため」として、「自然を守ろう!」だとか「エコロジーを考えて行動しよう!」などといい、そうした動きが大きくなっています。でも実はこれこそが自然の流れに逆らった生態系のバランスを崩す行為ともいえないだろうか?といった問題提起も含まれています。
このテーマは深くて複雑で、答えが簡単に出るようなテーマではありません。でも彼女は最後に次のようにまとめていました。
私たちは頭脳を持った人間なので、「どうにかしなくては!」と考えてしまう。そしてこれは極めて人間的な行為とも言える。ところが「どうにかしなくては!」と思っているところに、「エコロジー」のような概念が現れ、「できることから始めよう!」といった言葉がふってくると、それが正しい選択なのかも分からないままに行動し満足してしまいがちである。私たちはケモノとは違いがあるので、人間として「どうにかしなくては」をかかえて行動してしまうのだけれど、それはときに「(行動基準が)ケモノ的な」企業や政府から与えられたものであって、自分で感じ取ったものではなかったりする。私たちは結局、ケモノとして地球にコントロールされようとしているのではないだろうか? 「できることから始めよう!」などと言った分かりやすい宣伝文句にのってしまって、考えることを放棄してしまっていていいのだろうか? ……人類はこの先、どうやって生きていったらいいのだろう?
自由の森の授業に接するたびに思うことがあります。それは、好奇心が旺盛で学ぶ姿勢が純粋な中学生や高校生といった時期に、知識の詰め込みのような受験勉強をさせてしまってはモッタイナイ!ということ。これでも、彼女自身は今回の授業にまだ満足できていなかったようだったのだけれど(そこがまた素晴らしいとも思う)、でもまた今回も素晴らしい学びの現場に出会うことが出来て、なんだかとてもすがすがしい気持ちで帰ってくることができたのでした。