Blog「自給知足がおもしろい」

自給「知」足と称した、貧乏くさい暮らしを楽しむためのブログです。

完璧な自給自足は目指さず、「テキトー」と「いー加減」をモットーにあまり頑張りすぎない、
そんな暮らし方がこの頃なんだか、とてもオモシロイ!と感じています。
自給「知足」的な暮らしは言いかえると「貧乏臭い・ケチ臭い暮らし」でもあります。

でも「ケチ臭いビンボー暮らし」も、そう捨てたものではありません。
ビンボー暮らしは、お金をそれほど必要としない暮らしとも言えます。
そのため、お金稼ぎの作業や仕事に長時間、拘束されずにすみ、
その分の時間を、ヒトが暮らすための作業に使うことができます。

農的で質素な暮らし方が可能で、それにより身近なことで幸せを感じることができたりもします。
また、昔ながらの農的な暮らしは、ヒトも哺乳類の一種として自然の生態系の中で
虫や草や菌類など他のいきものたちと共に生きる暮らし方だったりもします。

そして、こうしたテキトーでいー加減な自給的な暮らしをうまくやっていくポイントは、「知足」? 
人間の欲望は際限がなくてお金をたくさん得られても、たぶんどんなお金持ちになっても満たされません。
でも逆に、小さなちょっとしたことでも、とても幸せに感じられることがあったりします……不思議です。

日々の暮らしの中から「自給知足的な暮らし」を楽しむためのヒント? 
のようなものを、紹介できたらいいなぁ、と思っています。どうか、よろしく。


J408GMC・ポカリスエットスペシャル?完成


 霜が降りて、氷がはっているというのに、今年はブルーベリーがまだなっています。さすがに数は少ないのだけれど、今の時期のブルーベリーは寒さで糖度が凝縮され、とても美味しい……。でも、ちょっと気になることもあります。チェルノブイリでの資料を見るとブルーベリーは放射性物質も凝縮しやすいようなのです。
 自家用ではあるけれど、ウチにやってくるお客さんもこのブルーベリーを食べます。お客さんと一緒に小さな子がやってくることもあって悩んでしまうのです。約300㎞離れているとはいえ、チェルノブイリのことを考えると、ちょっと心配だったりするのでした。ちょうどそんなとき、京都大学の河野先生が核種まで精密に計測可能な測定器を使って測ってくれるというありがたいお話をいただいたのでした。
 そしてこの機会に、ただ測っていただくだけではもったいないので、試料を送る前に自作のガイガーカウンターでも同じ試料を測定し、ベクレルモニターとしてのJ408GMカウンターの感度を調べてみよう、ということになったのでした。

↑そのためにGMカウンターを少し改造することにしました。このところ老眼がひどく細かな作業はつらいので、ハンダ付けなどの作業は娘にお願いし……。

↑そして完成したポカリスエットスペシャル。ポカリスエットのペットボトルの底を切り抜き、逆さにして、キャップ側からJ408GM管のカソードを出します。ポカリスエットの500ccのペットボトルを使って、GM管の周囲を試料で取り囲むという寸法です。アノードとカソードの間には400Vという高電圧がかかっているので、試料によって導電してしまうと危険なのでGM管はビニール袋でくるみました。
 ポカリのペットボトルを使ったのは、これだったら全国どこでも同じものが手に入るので同じ規格で測定できるから。これとほぼ同じJ408GMカウンターが、現在、福島の武藤さんたちの元にも行っていていたりします。また容器自身が汚染されてしまった場合、新しいものに交換するのも容易です。これでもし、食品のある程度のベクレルが測れるようであれば、食品の放射性物質のおおよその目安を個人が計測し知ることができたりしないか? という目論見があります。
 GM管が1本でもあることだし、ある程度の時間をかけていくつかの試料を測定中。結果が集計でき次第、紹介させていただこうと思います。

 しかしそれにしても現場の事故処理や除染にしてもそうだけど、この途方もない事故を起こした会社や関連業者(原子炉の管理やメインテナンスを行なっていた会社)が、高価なベクレルモニターの販売元や輸入代理店だったりする構図に、いまさらながら驚かされています。今回のポカリスペシャルは、せめてそれらを購入せず自分たちで自作した測定器を使って測定ができるようにしたい、という意向もあったりもします。訴追され取り調べや責任を追求されるどころか、最近では逆に事故処理のための膨大な利権を手にしているのです。そしてテレビにまで再び影響を及ぼし始めました(原発国民投票を謳った「通販生活秋冬号」のテレビコマーシャルが放送拒否されていたりするようです)。
 たしかに気持ちの切り替えもときには必要だと思うのだけれど、でも今回の事故のことは頭の中から完全に排除してはいけないことなのではないか?という思いがあります。少なくとも福島のひとたちは(いまどこかに避難されている方も含めて)、今もいっときたりとも今回のことを、忘れるなんて、できない状況にいるのだから……。