Blog「自給知足がおもしろい」

自給「知」足と称した、貧乏くさい暮らしを楽しむためのブログです。

完璧な自給自足は目指さず、「テキトー」と「いー加減」をモットーにあまり頑張りすぎない、
そんな暮らし方がこの頃なんだか、とてもオモシロイ!と感じています。
自給「知足」的な暮らしは言いかえると「貧乏臭い・ケチ臭い暮らし」でもあります。

でも「ケチ臭いビンボー暮らし」も、そう捨てたものではありません。
ビンボー暮らしは、お金をそれほど必要としない暮らしとも言えます。
そのため、お金稼ぎの作業や仕事に長時間、拘束されずにすみ、
その分の時間を、ヒトが暮らすための作業に使うことができます。

農的で質素な暮らし方が可能で、それにより身近なことで幸せを感じることができたりもします。
また、昔ながらの農的な暮らしは、ヒトも哺乳類の一種として自然の生態系の中で
虫や草や菌類など他のいきものたちと共に生きる暮らし方だったりもします。

そして、こうしたテキトーでいー加減な自給的な暮らしをうまくやっていくポイントは、「知足」? 
人間の欲望は際限がなくてお金をたくさん得られても、たぶんどんなお金持ちになっても満たされません。
でも逆に、小さなちょっとしたことでも、とても幸せに感じられることがあったりします……不思議です。

日々の暮らしの中から「自給知足的な暮らし」を楽しむためのヒント? 
のようなものを、紹介できたらいいなぁ、と思っています。どうか、よろしく。


村雨橋をご存じですか?

 八ヶ岳山麓地域に配ったチラシに書いた原稿をコピペします。意外と反応があって、なかでも驚いたのは「当時ボクはあのバリケードの中にいました!」という人がいらしたこと。
 しかもなんとその方はいま、八ヶ岳南麓、北杜市の市議会議員をされています。それを知り、今度はこちらの鳥肌がたちました。ということで、できればいま、多くの方に読んでいいただけたらと思い、以下にチラシに書かせてもらった原稿、コピペします。


横浜、沖縄、中川村……、地方からの表明!
国のやることが、いつも正しいとは限らない。

「生まれはどちらですか?」 こんな風に出身地を問われたとき、普通は県名を答えるのだそうです。たとえば、「長野です」とか「山梨だよ」という感じ。でも不思議なことに、横浜出身者は「神奈川です」とは答えずに「横浜です」と答えます。言われるまで気が付かなかったのですが、実は私もそうでした。

 解釈の仕方を変更することで、憲法の内容を自分たちに都合がいいように変えてしまうなどという、とんでもない暴挙を行っているというのに、残念ながら多くの有権者は、政治的なことにあまり関心を示してくれない……、そのことでこのところ、ちょっとへこんでいました。でもそんなときには、かつての横浜であったある事件のことを思い出し、地方の力に期待を託しています。しかも最近では、それを加勢してくれるかのように、翁長知事が当選し、沖縄の人たちの間にも熱い空気が流れているように感じます。

↑5月18日の琉球新報。ナイチの新聞は橋下のパフォーマンスが一面トップで、それにもみ消されてしまった格好だけれども、沖縄では3万5000人もの人が青い服を来て集まったとのことです。

 横浜駅の東側に村雨橋(むらさめばし)という橋があるのですが、その近くにある病院で私は生まれました。1960年のことです。住んでいたのは横浜駅の西側に広がる丘陵地帯。いまでは信じられないことですが、私の子供の頃は横浜駅周辺にもまだ田んぼや畑が残っていました。
 ウチにも小さな畑がありました、また地主であるお隣の家には、生け垣に囲われた楽園といってもいいような広い畑が敷地の中にあり、こどもたちの格好の遊び場になっていました。学校だけでなくこうしたところで子供たちは農的なことや自然の営みを学んでいたように思います(肥溜めなんかもありました)。
 これらの畑では農業ではなく「自給のための農」が行われていました。ですから当然、無農薬栽培だし、その頃はまだそんな言葉はなかったのだけれども「生物の多様性をはぐくむ農的な暮らし」がこの地では先祖代々営まれていたのでした。そして地産地消、食べ物の自給も地域内である程度できていたのでした。
もしかしたらこうした小さな自立が、国家のような大きな権力に意思決定を委ねることなく、自分自身でモノを考えるという心理的な余裕につながっていたのではないか?と最近、おぼろげながら思っています。
 その後、横浜にはさまざまな地域からいらしたキタリモノの人達が集まってきて、住宅が足りなくなり、その頃あった畑の多くはアパートやマンションになり、田んぼはショッピングセンターとなってしまったのでした。

↑ヒトによる薪炭林の管理とその生態をリンクさせたゼフィルスの一種でもあるアカシジミ三ツ沢球技場の裏に残された小さな雑木林には、こうした希少なチョウやキンラン、ギンラン、エビネなどすみかを追われた里山の生物が凝縮したように棲んでいる林があったりしました。

 1972年だから、私が12歳、中学生の時のことです。村雨橋という橋に横浜市の職員によってバリケードが築かれるという事件が起こりました。
 その頃の日本には、憲法9条が機能していて、集団的自衛権は認められていませんでした。そのため、お隣、韓国のようにベトナムへの派兵はさせられずに済んだのですが、ベトナム戦争で傷ついた車両や戦車は日本に運び込まれ、日本で整備を受け、修理が終わると再びベトナムへと送られていく、ということが続いていました。
 相模原に整備をするための工場があり、最初の頃は家の近くの国道16号線を戦車がキャタピラをきしませて自走していたことを覚えています。あのキャタビラはもしかしたら、ベトナムのヒトを轢き殺してきたのかもしれないと父に言われ、子ども心に強い憤りと恐怖を感じたものでした。ヒトの想像力というのは貧弱なもので、実践で使われた実物を目にするまでは、戦車や戦闘機は「カッコイイ」という感覚を持っていました……。
 その後、反戦運動が盛んになるに連れ、戦車の自走は風当たりが強くなり、戦車は大きなトレーラーに載せられ運ばれるようになり、最終的にはカバーが被せられ、一見しただけではそれが戦車であるとは分からないような状態で運ばれていました。


ホーチミンの博物館に展示されているベルのヘリコプター。サイゴン陥落の日、空母に到着したヘリのパイロットはサイゴンに戻ろうとはせず、そのままでは次のヘリコプターが着艦できないので、ヘリを人力で空母から落とすという映像が世界に衝撃を与えました。そんな状況で米国人以外の市民を助けことができるとはとても思えないのですが……。

 当時の横浜市民が選んだ市長は、飛鳥田(あすかた)一雄という人でした。のちに社会党の委員長にもなっています。最近の若い人たちは知らないかもしれませんが、その頃は日本の首都東京の知事も、共産党社会党が推薦していた革新自由連合美濃部亮吉という人だったりしました。

 当時、横浜駅の東側にはノースピアと呼ばれる米軍が専用に使用していた埠頭があって、ベトナム行きの戦車はそこから積み出されていました。そしてその埠頭にはひとつだけ橋がかかっていてその橋の名前が村雨橋。この橋を渡らない限り、ノースピアには行けないのです。
 反戦の立場を取る横浜市は、戦車の重量が橋の重量制限をオーバーしているとして道交法を使い戦車が橋を渡ることを拒絶したのでした。
 ところが国は、閣議で橋の車重制限を改訂し、強引に戦車を通行させようとしたのです。そこで飛鳥田市長は、市民が座り込みをしていた村雨橋に、市の職員を派遣し、共にバリケードを築きます。本人も村雨橋に近い横浜駅のすぐ隣りの東急ホテルの一室に移り、そこから戦車通行拒否のための陣頭指揮をとりました。市民とともに市の職員が実力行使で戦車の通行を阻止したのです。
 これが「村雨橋の闘争」と呼ばれる事件です。ケガ人や逮捕者を出し、ときに強行突破されたりもしたものの、バリケードや座り込みは100日近くも続きました。
 おそらくそれ以降は、横浜市はいまの沖縄と同様、国からさまざまな圧力を受けたものと思うのですが、中学生だった私にはそのあたりのことはわかりませんでした。ただいまもはっきり覚えているのは、入学式や卒業式などの式典で国家を歌わなかったこと(校長の裁量によるところが大きく学校によって違うようですが、私が卒業した当時の宮田中学校は変わった先生が多く(左遷先?)、国家は歌いませんでした)。
 国歌斉唱の際に起立しない教員に罰則が課せられるという現代では信じられないことかもしれませんが、当時の横浜では入学式や卒業式の際、君が代の代わりに横浜市歌が歌われたのでした。そんなわけで横浜市立の小学校や中学校を卒業している我々の世代は、横浜市歌をいまもそらんじて歌うことができたりします。

村雨橋前でUターンを余儀なくされ、相模原に戻っていく戦車。この頃は、トレーラーに載せられカバーをかぶっていますが、当初は幹線道路である16号線をキャタビラで走っていた記憶があります。

 100日にも及ぶ抵抗により、村雨橋の事件は海外にも広く知られるようになりました。当時日本に留学していたベトナムの留学生などを通じ、ベトナム国内でも日本のこの反戦運動のことが知られることになり、国交回復後、ベトナムの代表者たちは横浜市相模原市を表敬訪問しています。
 そんなこともあってか、いまベトナムに行くと、現地の人から「あなたは日本人か?それとも韓国人か?」と尋ねられることがよくあります。ベトナムの人たちはいまも、日本人に対してとても友好的で、我々は枯葉剤、そして日本人は原爆という兵器で何世代にもわたって苦しめられている、つまり非人道的な凄惨な兵器によって何世代にも渡って苦しめられている同志として暖かくむかえいれてくれるのでした。一方であのとき派兵させられてしまい(主に最前線で戦わされた)韓国の人たちは、なんだかちょっと気の毒なくらいにいまだに嫌われてしまっていたりします。

↑日本人と知って飛び切りの笑顔で迎えてくれた素敵な竹カゴを編む女性。
 八ヶ岳に移住してから今年で18年。どうにか住めるくらいに家ができあがったところで、移り住んでしまいました。
 そしていま、しみじみ移ってきて良かったと思っています。自然環境は豊かで、空間的な余裕もあり、人口密度も少ないので競争心を煽られることもありません。
 ついでに書くとこの人口密度が少ない状態で暮らすということは、昆虫の行動を観ていると、とても大切なことのように思います。多くの生物には生息密度による体の変化が遺伝子レベルで刷り込まれています。サバクトビバッタが有名ですが、生息密度が上がると凶暴になったり筋力や飛行力があがることが知られています。体色もそして性格も明らかに変化してしまうのです。

サバクトビバッタの相変異体。上が孤独相で、下が群生相。色だけでなく性格も異なってくるという。


たまーに、東京や横浜に行くと、なんだかこのことは人間にもかなり大きく影響を及ぼしているのではないか?などと思ってしまいます。
 この地に移って良かったと思うことはまだまだたくさんあるけれど、私にとっての一番は、都会と違って農的な暮らしや自給的な暮らしが行いやすい、ということでした。つまりはその気になれば、お金にそれほど頼らない暮らしができるということです。
 そのことは特に原発事故以降、強く意識をするようになりました。生息密度が少ないことによる余裕は、衣食住だけでなく電気や自動車の燃料と言ったエネルギーの自給に対しても有利だったりするのです。

↑晩秋、麦のタネを蒔くための畑を耕転する古いトラクター。自動車だけでなくトラクターや発電機も天ぷら廃油を使って動かせることができるようになりました。公共交通機関の貧弱な田舎では自動車の燃料を自給できるようになると、必要なお金をかなり少なくすることができます。


 金銭的にはかなり厳しいけれども、こうして自給的な暮らしができることが、心の余裕度につながるのではないかと思っています。たとえ今、自給的な暮らしをしていなくても、その気になればできる、あるいは、どうにかなる、という余裕がこの地にはあるように思うのです。一方、都会でもし大きな災害に襲われたとしたら、つまりお金でモノが買えなくなったら、生きていくすべがなくなります。故意に想像力を殺してみたとしてもこのことは決定的で、それを心の奥に抱えている限り、日々の選択は刹那的にならざるを得ません。近視眼的に良ければそれでよし。未来を憂い政治的なことを考える余裕は失われてしまうように思うのです。

 いま「お住いはどちらですか」と聞かれたら「山梨」や「長野」という県名ではなく、自信をもって「北杜市」あるいは「八ヶ岳」とこたえることができます。
「想い」を他人に伝えるのは難しく、それはなかなか浸透しないけれど、でも、まずは自分の住んでいるこの地域から、そしてそれには、まずは自分の暮らし方から変えていけたら、と思っています。


2020年2月16日追記:砂漠トビバッタが生息密度によって飛翔力が変わるのは、共食いによる飛翔関連ホルモン摂取という説もあるそうです。