完璧な自給自足は目指さず、「テキトー」と「いー加減」をモットーにあまり頑張りすぎない、
そんな暮らし方がこの頃なんだか、とてもオモシロイ!と感じています。
自給「知足」的な暮らしは言いかえると「貧乏臭い・ケチ臭い暮らし」でもあります。

でも「ケチ臭いビンボー暮らし」も、そう捨てたものではありません。
ビンボー暮らしは、お金をそれほど必要としない暮らしとも言えます。
そのため、お金稼ぎの作業や仕事に長時間、拘束されずにすみ、
その分の時間を、ヒトが暮らすための作業に使うことができます。

農的でていねいな暮らし方が可能で、身近なところで幸せを感じることができたりもします。
また、昔ながらの農的な暮らしは、ヒトも一種の哺乳類として自然の生態系の中で
他のいきものたちと共に生きる暮らし方だったりもします。

そして、こうしたテキトーでいー加減な自給的な暮らしをうまくやっていくポイントは、「知足」? 
人間の欲望は際限がなくて、いくらお金を得られたとしても、たぶんいつまでたっても満たされません。
でも逆に、小さなちょっとしたことでも、とても幸せに感じられることがあったりします……不思議です。

日々の暮らしの中から「自給知足的な暮らし」を楽しむためのヒント? 
のようなものを、紹介できたらいいなぁ、と思っています。どうぞ、よろしく。


ノーベル平和賞、ああー。


↑世界一貧乏な大統領と言われるウルグアイのムヒカ大統領と愛車


 日本国憲法ノーベル賞を取れなくても、残念だけどまあそれは仕方がないかなぁ、と思えるのだけれど、イスラムの人(特にインドネシアやマレーなどに住むイスラム教徒)へのメッセージ性について、平和ということをベースに真剣に考えた上で判断すると、彼女ではなかったほうが良かったように思います。
 八ヶ岳メーリングリストで板垣先生が、所詮、ノーベル賞は体制側の道具、というようなことをかなり断定的に言われていて、「いや、我々の側にもこうした広告的手法を利用する必要があるのではないか……」と密かに思っていたのだけれど、ノーベル賞が欧米側の主張の砦のような存在であるということが実証されてしまったように感じました。
パキスタンの女性たちに教育の機会を」と、本気で思っているのであれば、こんな風に対立を際だたせるようなことは決してしなかった、と思うのです。

 スノーデンやムヒカのような人が平和賞を受賞というのも、最初からなかったのかもね?

 山中という人も、人としては魅力のある人のように思うのだけれど、彼の受賞によって、万能細胞を使った再生医療に対しての正当性の裏付けに使われてしまったようなところがあるように思います。
 本当はその前に、万能細胞を使った再生医療の倫理的な側面を検証する必要があり、万能細胞を使った再生医療を認めるということは、細胞劣化プログラムのコントロール=細胞老化の制御=不老不死への道を開く、ということでもあり、今後、それは地球上の人の数をどうコントロールするかという命題と同じであるということで人類全体で考える必要があったように思うのです。
 ところがiPS細胞のノーベル賞受賞によって、それを大幅に省略し、万能細胞を使った再生医療は正当なのでどんどん進めていくべきもの、としての方向付けがされてしまったようにも思えます。
 ああー。